歌津小太郎こぶ巻ファンド ファンドニュース 2014年10月

被災地からのレポート2014年10月28日 10:44

『11/2座間市・11/3蓮田市』歌津の旨いものたっぷり持って行きますよ!

”歌津小太郎こぶ巻ファンド”の有限会社橋本水産食品の千葉孝浩です。
10月10日より30日まで、セキュリテセットでの『新物さんま昆布巻』の限定販売を致しておりますが、
おかげさまで予想以上のご注文を頂いております。震災前まではほぼ宮城県内のお客様だけにしかお届け出来ていなかった“歌津小太郎の味”を、このような仕組みを通じてより広くそして多くの皆さまにお届けできること、昆布巻の作り手であるベテラン製造スタッフ陣(歌津の漁師のお母ちゃん達)も大いに喜んでおります。


私たちが“歌津小太郎の味”を作ってます!  


さて、今回は2012年から恒例となっております11月の首都圏での催事への出店のご案内をさせて頂きます。2日連続で2か所での開催でして、いずれも都心から1時間程度です。


第一弾: 11月2日(日)神奈川県座間市『座間市民ふるさとまつり』
   [会場]  座間中学校    
              ※新宿→座間(相武台前)は小田急線で約50分


●第二弾: 11月3日(月・祝)埼玉県蓮田市『雅楽谷の森フェスティバル』   
     [会場]  蓮田市役所    
            ※上野→蓮田はJRで約50分



【出店内容】
お持ちする商品は11月2日と3日で共通となりますが、歌津小太郎の商品としましては、わかめ、陸中漬、ひと味ぼれ(ひとみぼれ)などの3品目をメインに。そして目玉商品は、11月1日に水揚げした南三陸産の活きホタテを私がトラックで運びまして、その場で炭火焼きにします『ホタテ焼き』!


水揚げしたばかりのホタテを持っていきますよ(写真は昨年2013年11月のもの)


  【11月の催事出店の経緯】
座間市も蓮田市も震災ボランティアで来て頂いたみなさんとのキッカケに交流が深まりました。ボランティアの皆さんはそれぞれ個人的な活動として頻繁に歌津の我々の手助けに来て下さっていたのですが、我々がそのときどきで何に困っていて、被災後の時間の経過とともに次はどんな手助けが必要かを察知して下さいました。そしてなんとか水産加工の商品が作れるようになってからは、地元の自治体や商店街に働きかけて、『買って応援』する場として、2012年よりこの時期のこうしたイベントにお声掛けを頂くようになりました。今年で丸3年となります。

 
歌津小太郎スタッフ自身が首都圏に直接出向いて販売する数少ない機会ですので、お近くのかたは是非、お越し頂ければと思います。
両日とも私(千葉孝浩)が出店責任者としまして終日おります。いつものように歌津小太郎のハッピを着ていますので、お声掛け下さい。今回の歌津からの助っ人は、歌津小太郎第三の男・弟のカオルとその奥さんのカナエさん。そして、現地の助っ人は、私たち歌津/馬場中山地区の応援団である座間市・蓮田市それぞれのボランティアのみなさんです。(歌津小太郎の長文のブログの中の写真で登場している皆さん達ですよ)

私(千葉孝浩)の催事の際の姿です。店頭では全ての試食商品を味わって頂くのをモットーにしています!遠慮せず、お気軽に声をかけて下さい!(2014年4月の蓮田イベント時)

例年、準備した商品の全てが完売となるのですが、特に人気商品の『ホタテ焼き』は早い時間で無くなってしまう可能性が高いですので、お早目の時間をオススメします! では、天候に恵まれることを祈りつつ、歌津の旨いものの準備にとりかかりたいと思います。 より多くの皆さんとお会いできることを楽しみにしています。

記事担当: 千葉孝浩

追伸 残念ながら、歌津小太郎の看板商品の『さんま昆布巻』もホントは皆さんに試食だけでも味わって貰いたいのですが、現在フル生産中ではありますが、それでも品薄状態が続いているため、この催事にもお持ち出来ません。ゴメンナサイ!  



■□■□■特集写真コーナー■□■□■□■□■□
昨年、2013年11月のイベントの様子をご紹介します。

蓮田イベントです(この焼き台…はんぱなく火力が強いんで、すんごく熱いんです!!)
2013.11.3


網にのせて、5分もすれば…


出来上がり!!

大盛況のため、2013年の蓮田イベントでは400個 が2時で完売となりました。 歌津小太郎の出店ブースは大漁旗を掲げていますので、目印にして下さい。
 (ここまでの写真は被災地からのレポート20140121「歌津小太郎の11-12月~歌津の
海と仙台のデパ近より~」から再掲載)

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被災地からのレポート2014年10月21日 10:04

歌津小太郎の『由来と沿革2014』

”歌津小太郎こぶ巻ファンド”の有限会社橋本水産食品の千葉孝浩です。
今回は、昨年秋の『さんま昆布巻』復活から一年を経過したことと、最近になりまして第二工場建設計画をブログの中で触れましてから新規で出資して下さる方が増えて参りましたので、いろんな意味も含めまして改めて“歌津小太郎とは?”をご紹介したいと思います。そこで『由来と沿革2014』というタイトルにしてみました。


2014年4月26日のファンドツアーで訪れたみなさんとの集合写真です。前列の左から2番目が小太郎夫人のあさ子、後列の一番左から私(孝浩)、小太郎社長です。(被災地からのレポート2014年5月13日より)




 【歌津小太郎の“愛される昆布巻”とは】
歌津小太郎の看板商品はなんといっても昆布巻でして、さんま・にしん・さけを巻いた3品目があるのですが、中でも歌津小太郎ファンから熱烈な支持を得ているのが『さんま昆布巻』です。多くの方にとって昆布巻は、「お節料理の中でみかけるくらいしか思いつかない」というものかもしれませんが、歌津小太郎では昆布巻は年間を通して販売をしていて不動のナンバーワン商品です。特にこの時期は今年水揚げされた旬のサンマを使った『新物さんま昆布巻』を提供しております。どのくらい人気がすごいかと申しますと、この時期は製造スタッフは9割がた、この昆布巻の製造に集中していまして、残りの1割の時間で昆布巻以外の定番商品を数品目だけ必要最低限の量を作る、9月中旬からお歳暮商戦が終わる12月末まではそういった生産体制となっております。

ベテランの製造スタッフが毎日巻いています! 皆さん料理自慢のお母ちゃん達ばかりです!!

歌津小太郎のさんまの昆布巻は、秘伝の味付けと歌津の漁師のお母さん達の特殊製法により絶妙な味わいとなっており、口に含むと最初に“トロっ”と昆布がとろけ、そのあとサンマの旨味が広がります。骨までまるごと使っていますが、大変に柔らかく煮あがっており、ふだんは魚をあまり食べない子供さんでも好んで食べてくれるのだと言って下さるお客様もいらっしゃいます。


手作りの品ゆえに、めいっぱい頑張っても生産数量が十分ではないために、昆布巻製品は仙台市内にある老舗百貨店の『藤崎』の中の歌津小太郎直営店舗と当社の工場のお隣にあります南三陸町直売所『みなさん館』だけでの販売となります。しかし、これでは実店舗に行くことが出来る宮城県の方にしか、昆布巻をお届けできません!!!


そこで、10月10日にこちらのサイトでもご紹介させて頂いているように10月30日までの期間限定となりますが、セキュリテセットとしても販売を開始しました。宮城県以外の皆様にはそちらでお試し頂けると嬉しいです。


 藤崎本館地下2階の歌津小太郎直営店舗です。売り場の半分は昆布巻や煮物製品が占めていまして、さらに一日に何度も補充しています。(2013年12月撮影)



 【歌津小太郎の由来とは】
2012年6月にこの被災地応援ファンドに参加してから、多くの方に歌津小太郎を知って頂く機会が増えました。皆さまからよく頂くのが、

       「”歌津小太郎”と橋本水産食品の“橋本”と苗字の"千葉"の関連が判らないので教えて欲し い!」
      
       「橋本さんという方が創業者ですか?」

 というお声です。確かに判りにくいですね! 自分達にとっては当たり前のことなので、あえてご説明をするという発想が抜け落ちてしまっていることが沢山あるなと気付かされるご質問です。

このネーミング問題に関しては、2013年9月10日に「由来」というタイトルでその説明をしておりますが、一年以上経過しましたので、その3つの名前の関連を改めて再編成してご紹介したいと思います。


◎会社名の有限会社橋本水産食品の“橋本”とは
創業者である千葉小太郎(父)が昭和50年(1975年)に漁師と兼業で水産加工を始めたのですが、その際に社名をウチ(千葉家)の屋号の“橋本”からとりまして有限会社橋本水産食品としました。都会に住む方は屋号というのはなじみがないと思いますが、地方では商売をやっていない家でも屋号を持つということがよくあります。ちなみに千葉家があります南三陸町(旧・歌津町)の馬場・中山地区では、100軒ほどの家族のうち、12軒の千葉さんがいらっしゃいますし、他にも阿部さん、及川さん、佐々木さんという家が多く、苗字だけでは判別できませんので、屋号で呼び合うのです。 我が千葉家の場合は、前の歌津小太郎工場の場所が”橋本”の原点でして、津波で跡かたもなく流されてしまいましたが、明治29年の三陸大津波まで、もともと代々漁師を営む千葉家があり、そこの隣に海に流れる小川にかかる橋がありまして、その橋のたもとということで”橋本”という屋号で呼ばれていたのでした。


震災前までの工場跡地です。 「橋本」由来の場所です。ここが自宅だった昭和の半ば頃は、家の裏に直接小舟をつけていたわけです。遠くに見えるのが歌津半島の先端です。(2011年3月13日撮影)



◎“歌津小太郎”とは?
昭和50年(1975年)に有限会社橋本水産食品を立ち上げましたが、会社といっても本当に小さな家族経営の規模でして、漁師と兼業しながらわかめの塩蔵品などの半加工品や、味付けした「めかぶ」や「くきわかめ」といった加工品をほそぼそと作っていました。当初は盛岡のスーパー等で「むきホヤ」を直接納品に行ったり、近くの産業まつりなどの物産展のイベントに出店したりと、そんな商売をしていました。 いまどきの言葉でいうと、一次産業(漁業)、二次産業(製造業/水産加工)、三次産業(サービス業/小売)の全てを行う六次産業(一次+二次+三次)だったわけです。

やがて私たちが作る味が評判となり、仙台の老舗百貨店の藤崎さんにお声がけ頂くことが出来まして、常設の店舗を構えるようになったのが平成5年(1993年)。その時に、私たち自身のブランド名を作り、その名前を町名の歌津と創業者の千葉小太郎を合わせて“歌津小太郎”と名付けました。直営店舗を持つようになってからは、味付けした「めかぶ」や「くきわかめ」に加えて、海藻類の煮もの製品のラインナップも充実させていきまして、昔は各家庭で作っていたけれど手間がかかるのであまり作らなくなってきた『昆布巻』なども歌津小太郎商品としてお出しするようになりました。この海藻類の煮もの製品は我々にとっては歌津のどこの家庭でも定番のメニューであり、色合いも地味ですからデパートで売れるのかと当初は半信半疑でしたが、仙台という宮城県内での“都会”のみなさんには懐かしい味としてご指示を頂いたのでした。


小太郎社長の昔の漁師姿の写真(15年ほど前に「藤崎」の直営店舗での宣伝用に撮影)  


 【歌津小太郎の震災前と現在】
歌津小太郎をもっと良く知って頂くために、震災の直前と現在のビフォー・アフターを比較したいと思います。こちらも依然にブログで掲載したものを再編成して、数字を若干、新しくしています。

◎震災前の歌津小太郎(有限会社橋本水産食品-2010)
会社概要: 有限会社橋本水産食品(商品ブランド名: 漁師歌津小太郎)
震災前の住所:宮城県本吉郡南三陸町(旧・歌津町)
      歌津字馬場82  (本社、兼自宅)
      字中山59-4(工場) ※海まで5歩
従業員数(社長も含む): 14人(うち歌津メンバーが9人、仙台の販売スタッフが5人)
取り扱い商品: 季節商品も含め全30品目  
     代表商品 こぶ巻(さんま・にしん・さけ・あなご・たらこ)、めかぶ漬、ほや醤油漬、陸中漬 など
販売チャンネル:  
    仙台・藤崎における直営店舗での対面販売  7割
     提携先 ㈱カドヤ加藤物産による首都圏の百貨店での対面販売 2割
     その他催事販売、通販など  1割
震災前の3年間の平均売上額:  1.1億円   


 <<<2011年3月11日、東日本大震災とその後の津波により全ての生産資源を失ったのですが、 全従業員は無事でした!!!>>>



◎震災後の歌津小太郎(有限会社橋本水産食品-2014)
会社概要: 有限会社橋本水産食品(商品ブランド名: 漁師歌津小太郎)
本社住所: 宮城県本吉郡南三陸町(旧・歌津町)歌津字馬場82  
              (本社兼自宅でして震災前と変わりません)
震災後の新工場住所: 南三陸町歌津字管の浜55-1 (海からは1kmほど内陸)
              ※震災から丸2年経過した2013年4月27日に新工場を再建しました!
従業員数(社長も含む): 12人(うち、歌津メンバーが8人、仙台の販売スタッフが4人)
取り扱い商品: 季節商品も含め全20品目くらいまで回復   
     代表商品 こぶ巻(さんま・にしん・さけ)、めかぶ漬、陸中漬 など
     復活を望まれる商品 ほや醤油漬の通年販売、めかぶ漬の各種アレンジ商品(イカめかぶ等)
販売チャンネル:  (割合は2013年6月-2014年5月の概算)
     仙台・藤崎における直営店舗での対面販売       7割
     提携先 ㈱カドヤ加藤物産による首都圏の百貨店での対面販売 1.5割
     南三陸直売所『みなさん館』での委託販売      1割   
     その他催事販売とセキュリテセットなどでの通販  0.5割
震災後の1年間の売上実績:  ※ファンド募集期間中なので数字の公表が出来ないのですが、
  2013年6月-2014年5月の概算では、震災前の5割強くらいでした。原材料が揃わずに立ち上がりの前半で品数が揃えられなかったため、当初予想を大きく下回りました。
備考: 現在、製造スタッフが9名(8月に一人増員)ですが、全ての製品が手作りという歌津小太郎では、スタッフがフル稼働しても各所から頂くご要望に十分に応えられないというのが現状です。ネックとなるのが、2013年4月に再建した新工場の加工スペースでして、震災前の半分の面積なので製造スタッフを増員するのも厳しい状況です。そこで、南三陸町からの企業に対する補助事業の支援を受けまして、現在の工場のお隣に第二工場を増設する計画を進めています。2015年6月完成予定です。



震災前も後も変わらないのが私たちの作る思いでして、創業者の千葉小太郎が“漁師が食べている「うまいッ」を限りなくそのままをお届けする”ただそれだけを追及して参りましたし、これからも方針を変えずに作り続けて参ります。

こんぶ炒りを調理中のあさ子(小太郎夫人)

また、震災前後で変わらないもう一つは“対面販売”でほとんどを売り上げるという昔ながらの商売です。今は通信販売でなんでも買える時代ですので、時代遅れのビジネススタイルかもしれませんが、顔の見える販売を行っていたことが震災後の再建を後押しする結果となったことから得た教訓です。全く通信販売を行わないというよりは、今後、チャンスがあって通信販売の販路を開拓することになりましたら、出来るだけ“対面販売”の良さを取り入れたスタイルで、私たち“歌津小太郎”を良く知ってくださってからお買い上げ頂くようなそんな運営をしたいと考えています。セキュリテセットでの10月30日までの“昆布巻限定販売”は遠くにいても既に私たちを良く知って下さっている“被災地を応援する皆様”に歌津小太郎のこだわりの味をお届けできるチャンスとして取り組んでおります。


 【歌津小太郎のある旧・歌津町とは?】
宮城県の旧・歌津町は大まかな位置関係でいいますと気仙沼と石巻のちょうど中間あたりにあります。歌津半島といって細長く太平洋に伸びる半島があり、その北側の根元あたりに、千葉家の自宅と旧工場のある歌津/馬場・中山地区があります。仙台からでいうと距離で100km、車で2時間程度のところです。

平成17年(2005年)に、歌津町(うたつちょう、人口約5000人)とその南隣の志津川町(しづがわちょう、人口約12000人)が合併して南三陸町が誕生しました。人口比で判るように旧・志津川町のほうに町の行政機関の中心が置かれました。この二つの町はいずれも沿岸漁業が盛んですが、あえて違いを挙げるとすれば、志津川町のほうが比較的平地の面積が大きいために水産加工業が発達したけれども、歌津町のほうはそういった加工場を設ける場所が少ないので、古くからの漁業で生計を立てる家が多いということ、それに加えて、歌津町のほうは山の面積も多い分、林業も盛んである、そういった特徴があります。双方の町もともにわかめ養殖をしており、タコも獲れるのですが、ブランドイメージとしては、志津川町のほうは“タコ”(オクトパス君というキャラクターでも有名)、歌津町は“わかめ”というのが定着しています。いずれにしても合併して誕生した南三陸町全体が海の恩恵を受けて生活を営んでいるのだといえます。

震災の前から抱える南三陸町周辺の課題は、次の世代が働く場所があまりにも少なく、近くに救急病院が無い(石巻の緊急病院まで救急車で1時間かかります)、子供たちの教育環境もなかなか改善されない― ―そこに2011年の震災・津波が押し寄せました。特に働く場所の問題は、この地に住み続けたくても暮らしていけないという諦めにもつながり、働く世代の人口流出となっています。自分たちでは気づきませんでしたが、震災で支援に来た方からの一言が今でも脳裏に焼き付いています…「限界集落」。ここに住み続ける私たちにとって、震災が有る無しに関わらず、早かれ遅かれ免れようのない現実に今、直面しています。地域の疲弊は、私たち歌津小太郎の事業にとっても深刻な問題です。次の担い手となる世代への製造技術や食文化の継承はもちろん、特に深刻な問題は原材料の調達先である地元漁師さん達の後継者不足の問題です。これを解決するには安定した収入源を確保するため、南三陸の素材が持つそもそもの値打ちを、適正に評価される仕組みを地域全体で作り出さなくてはなりません。産業間の垣根を越えて、みんなで支え合うことを大事にしてきた田舎の文化の良さを、今こそ原点に立ち返って見直す必要があると感じています。私たち歌津小太郎としても、その一翼をしっかりと担えるよう、微力ながら地域に貢献してまいります。

【今回のまとめ】
今回の記事、“歌津小太郎の『由来と沿革2014』”を書いていまして、大変に遅ればせながら、昭和50年(1975年)創業ということは、来年の2015年が有限会社橋本水産食品の創業40周年にあたることに気がつきました。同時に、もう過ぎてしまったのですが、昨年の2013年が“漁師歌津小太郎”というブランド名が誕生して20周年であったことに気がつきました。昨年春に新工場で再スタートしてからあまりに目の前のことでいっぱいいっぱいで、大事なことに気がつくのが遅かったことに反省しきりです。

津波で全てを失っても諦めずに再建する道を選んだ一番のきっかけは、仙台/藤崎に何度も足を運んで下さっていた“歌津小太郎ファン”のお客様からの復活を望む声を沢山頂いたことですが、結果として小さい会社ながらも大家族のような従業員のこの地での生活を守れたことを改めて感慨深く思い起こしました。

小太郎社長と母のあさ子が一念奮起して漁師自ら海の幸を加工して販売するという商売に踏み切った40年前。それから長い年月が経ちましたが、今も変わらず笑顔で調理場に向かい“漁師が食べている「うまいッ」”を作り続ける製造スタッフさんを見ますと、津波で失ったのは形のあるモノだけであって、歌津小太郎の味を作りだす“無形の生産資源”は全く失っていなかったと思えてきました。津波被害を受け、丸2年間のブランクを経たものの復活させることが出来た無形の「うまいッ」資源を50年目、60年目の歌津小太郎につなぎ続けていくべく、頑張りたいと思います。

引き続き皆さまの応援をよろしくお願いします!

記事担当: 千葉孝浩


2012年6月、元の歌津小太郎工場の場所で撮影した写真です。

津波で海の中にもガレキが沈みましたが、漁師さんが海中清掃を行い、豊かな海が戻ってきています。 千葉家は専業での漁師はやめましたが、この地に古くから住む既得権として地域の漁港周辺での“漁業権”を今でも持っています。そして今でも年に数回だけ、アワビ漁などで海に出ます。 (奥から小舟を操作する母のあさ子、オレンジ色のカッパを着た小太郎社長、アワビカギを使って海中うぃ覗き込んでいる私(孝浩)、写真を撮影しているのが弟・カオル。海での家族写真です。2013年12月撮影)



歌津/馬場中山地区の高台からは海から上がる太陽がキレイに見えます。豊かな海とこの風景――震災直後は、絶対にこの地での暮らしを諦めないと日の出に向かって何度も誓いました。(馬場中山カオル商店HP20141009)

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被災地からのレポート2014年10月3日 10:03

復活2年目~8月のまとめ報告と“9月”~なりわいの復興に向けての歩み

”歌津小太郎 こぶ巻ファンド”の有限会社橋本水産食品の千葉孝浩です。
 8月下旬から9月は全国各地で大雨の被害が報告されていますが、皆様の地域では大丈夫でしたでしょうか? 2011年に津波被害を受けました南三陸町/歌津・馬場中山地区の元の工場がありました場所は地盤沈下していることもあり一時的に冠水したところもありますが、幸いにも大きな被害はありませんでした。現在の工場があります管の浜(海岸線より1kmほど内陸)は被害を受けることなく通常業務を行っています。

9月初旬、波の荒い日の様子です。 馬場中山カオル商店HP20140903


さて、秋といえばサンマですが、歌津小太郎では『新物サンマ昆布巻』の季節となります!


写真は2011年9月のもの。アウトドア好きでテントで過ごすボランティアの方に歌津の漁師さんたちがサンマを差し入れたときのものです。こうやってワイルドに焼いて食べるのもオイシイです。 馬場中山地区HP20110918

本当は毎月11日前後の配信を目標にしていますが、今回の記事はすっかり遅くなってしまい、とうとう10月になってしまいましたので直近の歌津小太郎の活動報告は8月後半と9月前半の分をお伝えします。震災後の3年間の振り返りでは震災から半年を経過した9月くらいになりますとそれぞれの『なりわいの復興』に向けて取り組むようになりましたので、そういった話題に重点をおいてお伝えしたいと思います。このブログでは紹介しきれないほど沢山の出来事がありました。歌津小太郎だけでなく南三陸町/歌津・馬場中山地区での生活を絶対に諦めないと決め、それぞれの仕事・暮らしを粛々と取り戻していこうとする地域の皆さんの姿を、嬉しいことももちろんですが辛いことも含め、出来るだけありのままにお伝え出来ればと思います。


● 2014年8月(および9月前半)の歌津小太郎活動報告  ~今年もサンマが来てくれました~
 昨年は異常気象(海水温が高い)の影響でサンマの南下が遅くなりましたので、今年はどうなることかとやきもきしながら、8月後半から北海道でのサンマの水揚げのニュースに地元の漁師さん達の最新情報にとアンテナを張り巡らせていました。幸いにも今年のサンマは丸々と太って脂の乗りが良いとのことで昆布巻には最高の品質! そんなサンマの初荷が9月12日に届きました。サンマが届いたとなると製造スタッフも私も『新物サンマ昆布巻』の作業に集中します。

一本一本愛情を込めて巻きます。


そして、歌津小太郎秘伝の手法で味付けし、煮上げてパック詰めし完成!

9月下旬より仙台市内の老舗百貨店『藤崎』と南三陸町の『みなさん館』(歌津小太郎工場のお隣)で『新物サンマ昆布巻』販売をしております。出資者の皆様で、昨年のシーズン中に出資者特典発送期間の後に参加された皆様、そして追加出資の皆様には10月上旬から特典の発送をさせて頂きます。是非、是非、楽しみにしてお待ち下さい。

首都圏で歌津小太郎商品を扱って下さっています(株)加藤物産さんによる10月の販売は、小田急百貨店新宿店、伊勢丹浦和店を予定しています。詳しくは歌津小太郎ホームページの「販売会のお知らせ」をご覧下さい。
 ……しかし……誠に申し訳ないのですが、『新物サンマ昆布巻』は生産数量が限られる関係で首都圏での販売では扱っていない場合がほとんどです。旧・歌津小太郎工場の半分の規模の生産設備しかないという現状ゆえに看板商品さえも満足な数量を作れないというのが実情なのです。これまでにも加藤物産さんの販売スタッフから「昆布巻が欲しいという要望が来ている」と何度も報告を受けているのですが、対応できておらずに本当にゴメンナサイ! ただいま改善のための第二工場増設計画に入っておりますので、ご理解頂ければと思います。

また、順番が前後してしまいましたが、8月23日(土)に開催されました『はすだ市民祭り』での販売の様子も、後半の写真特集のほうで掲載していますのでご覧頂ければと思います。

●3年間の振り返り
2月のブログより、毎月ごとに3年間の同じ月は何をしていたか思い出して書き綴っています。 書き残しておくことで未来の自分達へのメッセージであったり、非日常的な体験をした私達の経験が今後の教訓につながったりなど、そういった出来事を皆様と共有できたらと思います。

歌津小太郎の旧工場及び千葉家の自宅のあった南三陸町(旧・歌津町)馬場中山地区は地域全体が壊滅的な津波被害を受け、どうにか津波を被らなかった公共施設・馬場中山生活センターという高台にある建物で200人が避難生活を送ることになりました。一階の天井まで津波を被った千葉家でしたが、6月中旬にはなんとか修復して住める状態になりましたので、避難所を出ることが出来ました。これまでの報告では7月には地域の全員が仮設住宅や元の家に戻るなどしまして、7月11日(震災の日からちょうど4ヶ月)の日に避難所の解散となりましたことをお伝えしました。バラバラとなった地域の人々がその後どうなっていったか、私たちのストーリーに是非じっくりお付き合いいただければと思います。

とある日、支援センターではボランティアさんが撮影してきた歌津中学校(旧・歌津町唯一の中学校)の運動会の映像と写真を見せて貰いました。この後、閉会時の映像で不意に流れてきた中学校の校歌を聞いて、地域の男性陣は涙ぐんでいました。  馬場中山HP20110905


☆ 2011年9月: それぞれのなりわいの復興に向けて
2011年9月の出来事を思い出すと、あまりにも沢山のことがあり、どのように整理しようかと悩ましく、それが今回の記事をなかなかアップできなかった理由の一つです。そんなわけで大変にごちゃ混ぜな状態でご紹介することをお許しください。

この頃の大きな出来事の一つが9月10日に我らが歌津/馬場中山地区の強力な応援団である“はすだ支援隊”の埼玉県蓮田市さんから直々にご招待いただき、我々の被災の状況からこれまでの半年の歩みをお話しする場を作っていただきました。題して、『どっこい生きる!!馬場・中山地区』――この“どっこい生きる”というキャッチフレーズと申しますか枕詞は、実は被災した当初、4月か5月頃にNHKさんが我々の孤立集落状態2週間という経験談をつぶさに取材した結果、ニュースで長めに取り上げてくださったときにつけられたタイトル、『孤立集落、どっこい生きる!』からきています。それ以来、追加取材を頂いて放映されるたびにこの“どっこい生きる!”という表現がよく使われました。

会場の蓮田市役所前です。こんなに立派な看板まで用意して頂きました。ここからの写真は、馬場中山地区HP20110910



蓮田市の中野市長です。市長も我々のことを非常によく知ってくれています。


馬場中山地区から参りました4人です。大勢の前で話すことはないので緊張しています。


埼玉はすだ支援隊リーダーのトシさんの質問に答える形で進行します。


左から、私(千葉孝浩)、お隣がスリムで精悍な若手漁師のカズヒコさん


この写真の左より、震災の時が漁師3年目だったというヒデユキさん、そして右はしが弟の千葉馨です。


未来道の説明を航空写真で説明しています。どのように道が分断され、孤立集落となったか、航空写真での説明が一番わかりやすいです。未来道プロジェクトでは“はすだ支援隊”の方といっしょに汗を流しました。


こんな大きな会場いっぱいの参加者です。


漁師さんのお二人は馬場中山の漁師のなりわいについてお話させて頂きました。津波で多くの船が失われたこと、港の設備が破壊されたこと、あまりの津波の脅威にヒデユキさんは一時は海を見るのも辛かったといいます。


後半にはサプライズがありました! 漁師のカズヒコさんはいち早く新しい漁船を手に入れて、間もなく進水式のため、はすだ支援隊より大漁旗を頂きました。


みんなで記念撮影です。


この写真は……津波の波の引いた後、あちこちで煙が上がっている写真です。今見てもあのときの絶望感を思い出す悲しい写真の一つです。この写真をご覧いただいたのちに、会場のみなさんに黙とうをして頂きました。


多くのみなさんに我々の本当の状況を知っていただくことが出来ました。そして、遠くからも我々を気にかけて頂く沢山の『思い』を頂くことが出来ました。


会場の外では“はすだ支援隊”のみなさんが馬場中山地区で活動している様子を写真展示して下さっていました。



参加して下さった蓮田市の行政側の方々や一般市民の皆様にも直接、温かい言葉をかけて頂くことが出来ました。このときから馬場中山地区応援団は、蓮田市エリアの土木建設業のみなさんを中心にした約20人の“はすだ支援隊”から、人口62,000人の“拡大はすだ支援隊”になったように思います。

終了後、市役所の外に出たところでも参加者の方に声をかけて頂きました。若手漁師さん二人が説明をしています。ここまでの写真は、馬場中山地区HP20110910

このように直接私たちの話を聞いていただく機会を得たことが、その後、年に3回(4月・8月・11月)の蓮田市でのイベントにお声がけ頂けるキッカケとなり、震災から3年半を経た現在も続いています。もちろん、つい先日の今年の8月23日のイベントにも沢山の蓮田市民にブースに立ち寄って頂きました。本当にありがたいことです。

[漁師達のなりわいの復興]
7月中には避難所が解散し、仮設住宅で暮らす人々は慣れない仮住まいながらも最低限の家財道具を一通り揃えますと、地域の皆さんはようやくそれぞれの家族単位で今後の暮らしをどう再建していくかを考えられるようになってきました。歌津/馬場中山地区の9割ほどは漁師さんですから、遠い仮設住宅のくじを引いてしまった方などは10kmも内陸から馬場地区・中山地区の漁港に通い、作業することになります。

これまでも漁師さん達は、漁協の管理下のもと、共同で漁場の清掃作業を行ってきました。9月に入りますと例年であればワカメ養殖の準備がスタートするのですが、3月の津波で大小合わせておよそ100隻あった船のうち、無傷だったのは3隻。あとは津波にさらわれてどこに行ったか皆目判らないものもあれば、小船に船外機がついたくらいのものは、多くは港の中に沈みました。ごくごく簡単な造りの船は、船体に傷がついていなければ、船外機を取り替えれば使えますから、極力、海から引き上げてなんとか使える船を増やしていきました。

7月のことでしたが、船外機を支援頂いたこともありました。我々のニーズをしっかりとらえた支援の品に漁師さん達が大感激した瞬間でした。 馬場中山地区HP20110704


船外機とはこのトラックに乗っている船でいいますと、船尾についているコレです。馬場中山地区HP20110704


8月にその概要に触れました「なじょにかなるさープロジェクト」は、まずは歌津/馬場中山地区の漁業の中心であるワカメ養殖をなんとか2014年シーズンに向けて復興させようということで、複数の支援団体が協力を申し出てくれてスタートしたものでした。プロジェクトに参加する漁師さんは主に4人。震災前まではそれぞれが良い意味でライバルとして、競い合っていた漁師仲間でした。ワカメ養殖の『仕込み』の始まりは10月です。ですから、何が何でも5トンという規模の養殖に使える船を1隻、9月中に手に入れたかったのでした。

8月にかすかな情報を頼りに訪れた北海道でなんとかその5トンの船を手に入れられる道筋が出来、各種の手続きを経て、いよいよ北海道から歌津へ船を回送します。こうして、手に入れた船は福が倍になって帰ってくるようにと『福福丸』と名付けられました。この福福丸関連の写真は、後半の特集写真のコーナーにまとめて掲載します。

北海道の港を出る直前の『福福丸』です。馬場中山地区HP20110910


[ガレキ除去×未来道プロジェクト]
8月にはほぼ完成した未来道ですが、2011年も9月に入って雨が降ったりやんだりという日が続きました。最低限の出来る範囲でルート全体に砂利を敷き詰めた未来道は、少しの雨でもぬかるんで水がたまったままのところがところどころ出来ます。しかし、まだまだ物資が乏しい中、行政の力を借りずに地域住民で作った未来道には充分な砂利を敷き詰めるお金がありません。にわか工事の避難道としてはこれで充分かと思っていたのですが、そこにまたプロの助言が届きました。

 「砂利は買わなくても良い。地域のアチコチにころがる大型コンクリート片を砕いて敷き詰めれば良いのだ」と――。歌津/馬場中山地区にこれまでにも沢山の支援物資を提供してくれた福井県・大野市の建設業組合の名物社長の一人、石塚さんは説明をするよりも早く、コンクリートクラッシャーをトレーラーで運んできてくださいました。

9月4日朝、2台の輸送車に乗せられてコンクリートクラッシャーがやってきました。馬場中山地区HP20110904

石塚さんのすごいところはスピードです。私たち地域のものが困ってマゴマゴしているうちに、石塚さんが経験を持っていて大得意とするところは、驚くべき速さでスマートにプロジェクトを前進させてくれることでした。そんな強力な支援のおかげで、地域のあちらこちらに転がるコンクリート片を片付けると同時に、未来道に敷き詰める砂利が出来ていったのでした。後から道路建設のプロにきくと、平常時であれば建設資材として売っている砂利を買ったほうが安かったのだと言います。しかし、いずれにしてもどこかにどかして処理しなければならない、堤防の残骸などと大きなコンクリート片をこのように処理することが出来たのは、未来道の砂利確保とコンクリート処理の一石二鳥どころではなく、塞ぎがちなあの時期に共同作業に没頭できた喜びと、その目に見える効果を加えると三鳥も四鳥も得られた、それが「未来道プロジェクト」の後半戦でした。


大きな塊だったコンクリート片をあっというまに砕きます。後半の写真特集で、砕くまでの工程をご紹介します。馬場中山地区HP20110904

[地域の伝統行事と生活]
9月といえばお彼岸です。私たちの地域は漁師町ということが強い理由だと思いますが、やはり昔から操業中の事故で命を落とす人が少なくなかったので、お彼岸の地域行事が根強く残っています。彼岸の中日は女性たちの行事として『お念仏』を行います。後半の特集写真のコーナーではそういった地域行事の写真なども取り上げてみました。


☆ 2012年9月: 震災から1年半――事業再開に向けてスタッフミーティングを開催しました!
震災から1年半を経過した頃は、陸上のガレキは片づけられていましたが、まだ護岸の改修にまでは手がつけられていませんでした。秋は台風の襲来で海が荒れる日が増えます。


2012年9月撮影の海岸線の様子です。多くの海岸線は大きな土嚢で応急補修をしているだけという状況です。歌津小太郎HP20120915



波が高い時の入江の様子です。台風のときはこんなものではありません。歌津小太郎HP20120915


そんな地域の状況ではありましたが、2012年9月14日、歌津小太郎再開に向けて大きな節目がありました。10月より南三陸直売所「みなさん館」のオープンに伴い、そのなかのレンタル工房をお借りして歌津小太郎の商品を作ることが出来るめどがたったことをお伝えするため、再び元従業員のみなさんに集まって貰いました。




レンタル工房の図面と見ています。元の工場の1割くらいの規模での再スタートです。


歌津小太郎再スタートのメンバーです。歌津小太郎HP20120915


震災前の従業員数が13名でしたが、それぞれの事情で歌津の地を離れてしまった方もいらっしゃいます。 家族同様で長年いっしょに働いてきたメンバーの数人はこの場に集まれなかったのですが、いつかまた環境が変化し一堂に介することが出来るように、少しずつ歌津小太郎を震災前以上に盛り上げていこう、そう誓った日でした。


☆ 2013年9月:  3年ぶり、『さんま昆布巻』の復活に涙
2013年4月には歌津小太郎新工場が再開できましたが、原材料が揃わず看板商品の『さんま昆布巻』を作れずにいました。9月になりますと、初物のさんまを使って『さんま昆布巻』のフル生産体制に入れるのですが、2013年は肝心のさんまがなかなか来てくれませんでした。鵜の助さんの最高品質の昆布を用意して準備万端の体制で臨んでいたのに! 海水温が高い状態が続き、さんまが南下してくるのが遅くなったのです。
この間、仙台・藤崎/歌津小太郎売り場では、うまいものの時期を知っている常連のお客様が「昆布巻はまだ…?」と何人もやってきました。ここに来て看板商品である昆布巻をさらにお待たせすることになるとは…。
最終的には計画よりも3週間ほど遅れて、9月下旬からさんまの昆布巻作りに取りかかりました。藤崎に訪れる歌津小太郎ファン(特に昆布巻ファン)のお客様たちには、9月の終わり頃ようやく昆布巻をお届けすることが出来ました!
  「この味を待っていたのよぉ!」
お客様のお声を頂き、ようやく歌津小太郎復活の第一段階をクリア出来たように思い、同時に涙が溢れてきました。製造を担うベテラン従業員さん達も、長年培った自分たちの技術が、まだまださびれていないことを確認できて、ほっと一安心といった感じでもありました。

写真は2012年12月の仙台/藤崎の歌津小太郎売り場です。『昆布巻』が復活してようやく歌津小太郎らしくなってきました。 被災地からのレポート20130121


● 2014年9月~10月の歌津の海・港・漁師・旨いものそして歌津小太郎情報
9月下旬から三陸沖では漁船漁業に携わる漁師さん達による秋サケ漁が漁期に入り、南三陸町志津川市場は秋の味覚の訪れで、震災前と変わらぬ賑わいを取り戻しています。歌津小太郎でもこの秋サケを使った『さけ昆布巻』も『さんま昆布巻』同様、新物の時期を迎え、工場スタッフの生産体制も連日フル稼働の状況です。皆さんご存知のようにサケは3年をかけて自分の生まれた川に戻ってくる習性があります。3年前と言えば震災の年にあたりますので、サケが順調に水揚げできるのかと、漁師の皆さんは不安の中での操業を今年は強いられています。3年半を過ぎた今なお、震災の爪痕が漁業にも大きく残っているのだと思うと、改めてこの災害の大きさを思い知るところでもあります。




20141002撮影 脂の乗ったサケが今日は大漁です。




20141002撮影 1匹が8kgを超える大物を漁師のお母さんたちの熟練の技でさばきます。

歌津小太郎では10月下旬より仙台藤崎百貨店と南三陸直売所みなさん館にて『新物さけ昆布巻』が店頭に並び始めます。『さんま昆布巻』共々、今後控えるお歳暮商戦、年末商戦には欠かせない商品として万全の態勢で臨みたいと思います。

<あとがき>
いつも長~くなってしまう歌津小太郎のブログの一部は、我々を気にかけてくださる出資者の方などからの情報発信に対するアドバイスを元に構成しています。自分達にとっては当たり前すぎてこれまでお伝えできていなかった歌津のことに漁師の仕事や海の旨いもののことなど、「こんなこと知りたい!」とリクエストを頂ければ今後のブログで反映していきたいと思いますのでよろしくお願いします。
 (すぐには全てに対応出来ないかもしれません。そのときはゴメンナサイ!)

今回の教訓ですが、2011年9月10日に蓮田市でお話をさせていただいたことが、参加した4人にとってはちょうど『合宿』のような効果があったように思います。合宿のイメージは学生の頃の部活などで泊まりがけでトレーニングに行くといったことに代表されると思いますが、とにかく普段と環境を変えた一泊二日の時間というのは大変に多くの貴重な体験となって印象に残ります。

2011年3月11日のあの日から、私自身の生活の多くは歌津と仙台を往復し物資の調達を、そしてこの頃、9月になってからは歌津小太郎の再建に向けての相談で地方事務所のある気仙沼市へと、この3ヶ所以外に行くことはほとんどないという生活でした。他の3人は歌津から出ることもほとんどなかったと思います。そんな4人がガレキだらけの宮城県沿岸部を出て他県の『本当に日常の風景』の場所に行きますと、別世界に降り立ったような感覚というか、いやいやこれが普通の状態なのだと再認識するというか、長い道中で同行したメンバーととりとめのない話をしたり、数年先の歌津のことを話し合ったりなど、とにかくいろんな話をしました。

蓮田市での夜の部では、今回のブログに写真は掲載しませんでしたが、はすだ支援隊のみなさんと遅くまで語り合いました。その時に語り合ったことが3年を経て実現できていること、まだ未完のことなど様々ですが、あの合宿的な経験があったからこそ、その後、進みが早まったことが沢山ありました。年代は近くとも経験値・分野が大きく異なる土木建設業の“はすだ支援隊”のみなさん達は、とにかくいろんな悩みに直面する我々を第三者の視点で導いてくれる『良きコーチ』でした。物事の節目節目でのこうした合宿的経験を良きコーチを迎えて行うのは、何か停滞したような場面で大変に重要だと感じました。

2011年9月はこの他にももっと沢山の出来事がありましたがあまりに長くなるので、多くの重要場面を割愛してしまいました。またの機会に再び振り返ってご紹介したいと考えております。ここまでおつきあい頂きありがとうございました!

記事担当 千葉孝浩


■□■□■今月の特集写真コーナー「なりわいの復興に向けて歩む」■□■□■□■□■□
いつも後半に特集写真のコーナーを設けています。「なりわいの復興に向けて歩む」と題しまして、2011年9月の地域の皆さんの姿とそれを支えて下さる強力な支援者の方をご紹介したいと思います。写真素材は全て、馬場中山地区ホームページ(歌津小太郎第三の男・カオルが運営)の中でご紹介したものを再掲載しています。今回は、地域の者にとっては当たり前の姿の地域の行事の様子も取り上げてみました。

[1.わかめ養殖の復活を目指した“なじょにかなるさープロジェクト”編] まずは地域の漁師さん達の9月頃の日常の様子です。


もちろん、震災前は個々のお宅で車を持っていましたが、まだ、このころは全員が車の調達が出来ていたわけではないため、こんな風に集合します。これが津波被害沿岸部のあちこちでの日常だったと思います。ここからの写真は、馬場中山HP20110909


中山地区の海岸の休憩所です。あのはすだ支援隊の作品です。手前は万能選手の『暖助』。暖も取れるし煮炊きに焼き物も出来る薪ストーブです。馬場中山HP20110909


9月30日、この日の作業は――  馬場中山HP20110930


自分達で出来ることは自分達でやります! 自ら漁港の船着き場にセメントを埋めていました。






船着き場作業の後、一旦、大きな仕事が終わった打ち上げで、バーベキューをしました。 避難所生活以来、こうした外での食事の手際が早くなっています。 ここまで、馬場中山HP20110930



ここからが『なじょにかなるさープロジェクト』のメンバー、船を取りに行く写真です。

出発の日、9月9日です。馬場中山地区HP20110909




仙台のフェリー乗り場まで送って行きました。ここまで、馬場中山地区HP20110909


9月10日、これが『福福丸』です。  馬場中山地区HP20110910


天候の見込みを考慮すると、すぐの出港が最良ということで、歌津に向けて港を出ました。


北海道の島影が遠くなっていきます。 ここまで、馬場中山地区HP20110910



『福福丸』を回航中の漁師さん達から、携帯がつながるタイミングで写真が届きます。津軽海峡は一日で越えられました。馬場中山地区HP20110911


海峡を越えたころから海が荒れ始め、こんな写真も届きました。馬場中山地区HP20110911


早朝に港に立ち寄ると、いました!『福福丸』です。 馬場中山地区HP20110913

近くでみるとこんな感じです。養殖作業で活躍するクレーンがついています。


船上はこんなかんじです。


北海道から帰ってきた漁師さん達がくつろいでいます。みなさんには判りにくいことかもしれませんが、沿岸漁師さんは船の操縦免許は持っていても、いつもは見慣れた山影の見える沿岸海域で操業するだけ。「航海」という経験は全くなかったので、この4日間の津軽海峡越えの航海は大冒険だったのでした。 馬場中山地区HP20110913


[2.未来道プロジェクト編]

9月4日、早朝にすごいものが届きました。またまたこの方の登場。福井県大野市の石塚さんです。ここからの写真は、馬場中山地区HP20110904

届けられたものは、想像をはるかに超えるすごいものでした。

本当に大きいです。一般道をよく通れたなと驚きます。


左手奥にコンクリートクラッシャー、そして砕いたコンクリート片をコンベアで持ち上げて、トラックの荷台に直接落とし込むのが手前の部分です。


あっという間に位置決めして設置していきます。

コンクリートクラッシャーの試運転用にコンクリート片を運びこみました。


判りにくいですが、コンクリートクラッシャーの投入口を覗き込んで試運転準備中です。


砕かれたコンクリートが出てきました。









コンクリートクラッシャーを運んできたのは、超低床トレーラーという特殊車両です。荷台部分は地上から50cmくらい。背の高い設備を運ぶ専用車です。役目を終えると颯爽と帰っていきました。ここまでの写真は、馬場中山地区HP20140904


まとまった量のコンクリートガレキ製の砂利が出来上がったところで、未来道への砂利敷き作業を再開しました。 馬場中山地区HP20110912


8月の作業では道の中心部に砂利を敷いたので、今回追加する砂利は道の崖側を補強するように敷きます。中央で後ろ姿を見せているのが私(孝浩)です。


重機できれいにならしています。オペレーターさんが器用です。


[3.地域の生活と伝統行事編]
ある日の夜、高台への集団移転についてのお話を聞くための集会がありました。

南三陸町全体に共通するお話です。ここからの写真は、馬場中山地区HP20110904

場所は、馬場中山生活センター(避難所だったところ)です。

お話はすばらしい歌津をつくる協議会会長さんからでした。話し合いは夜遅くまで続きました。ここまでの写真は、馬場中山地区HP20110904

ここからは地域の行事の様子です。

9月23日、彼岸の中日ということで馬場地区の女性陣が『お念仏』を行っていました。馬場中山地区HP20110923


大きなお地蔵様を正面にして、

輪になって座り、綱をつかんでいます。

久しぶりに地域の女性たちがこれだけの人数集まります。ご先祖様を思い、そしてこの地の再建を見守って欲しい、そんな願いを込めて祈り、念仏を唱えます。ここまで、馬場中山地区HP20110923

次の話題は『苗プロジェクト』

こちらは別の日です。苗プロジェクトの蛯名さんがいらして、今後の苗プロジェクトの運営方法に関して話し合いを提案しています。話し合いの場は支援センター(旧・第二避難所)です。馬場中山地区HP20110904


蛯名さんです。苗プロジェクトを立ち上げたときの個人としても思い、そしてそれに賛同して下さった有志の方々の思いを伝えています。苗プロジェクトを資金面で支援しているのは、神戸を中心に阪神淡路大震災で全国の人にお世話になったからその恩を『恩送り』という形で返したい――そういった関西エリアの個人の方や中小企業経営者の方が多いのだということでした。


仙台市の沼田種苗さん(中央)です。沼田種苗さんは、仙台市内沿岸部で農家を営んでいた多くの顧客が津波の塩害でしばらく耕作できなくなってしまったのだそうです。野菜の苗を生産する農家さんたちは仙台の内陸部が多かったので被害を受けていませんが、野菜苗を作っても売り先がない、そういった状況だったのでした。








ざっと数えて20人ほどの女性達が苗プロジェクトの話し合いに集まりました。話し合いの論点は、いかに公平にルールを決めて堆肥を分配するかです。苗に関しては希望数をとりまとめ役が聞いて、苗プロジェクト運営者にお伝えしていましたが、堆肥は早いもの順で好きなだけ持っていくということで、これまでルールがなかったのです。それぞれの畑の規模がバラバラですし、全員が避難所にいた6月の頃と違い、近くの元の家に住む者と遠い仮設に住む者では苗プロジェクトの堆肥分配の情報が届くにも情報格差があります。重たい堆肥を運ぶにも、高齢で車を運転できないおばあさんも多くいます。話し合いは当事者である女性たちで行って貰いました。


苗プロジェクトの運営をしているみなさんの集合写真です。左から苗屋さんの二人、有機農家さん、堆肥を作るお二人、とそれぞれ青空の下で汗を流すことが多く、いっぺんに集まることはめったにないそうです。女性たちの話し合いがまとまり、支援する側と支援を受ける側とで今後もうまく運営できそうです。


トラック満載の苗です。


堆肥も荷降ろしします。

秋に植えるものといえば、白菜です。(箱はレタスですが…)


早速、植えつけます。
ざっと数えて20人ほどの女性達が苗プロジェクトの話し合いに集まりました。遠くの避難所にいて参加できなかった人も含めると、約60名(60軒)ほどが苗プロジェクトの苗と堆肥を活用して、自給用の野菜を作っています。 ここまでの写真は、馬場中山HP20110904


[4.今年(2014年)の8月23日 はすだ市民祭り編]  



今回は歌津から漁師の佐々木英幸さんが助っ人で参加してくれました。(真ん中のピンクのタオルを首に巻いたのが佐々木くんです)




今年で3年目ですので、はすだ支援隊との役割分担もきっちり…息もピッタリです!!


夕方4時 最後のお客様は蓮田市の郵便局員さんでした…ありがとうございます。




完売御礼…みんな集まってバンザーイでイベントを締めくくりました。

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