歌津小太郎こぶ巻ファンド ファンドニュース

被災地からのレポート2014年2月24日 08:57

小太郎社長インタビュー:歌津の漁師

”歌津小太郎こぶ巻ファンド”の有限会社橋本水産食品の千葉孝浩です。 今回は、震災の話題でも歌津小太郎の現状のお話でもないのですが、出資者の方からときおり質問を頂く話題で“歌津小太郎のホームページに掲載している小太郎社長の昔の漁師姿”とそれに関連しまして昭和30年代頃までの昔の歌津の漁師のお話をご紹介したいと思います。



(小太郎社長の漁師姿の写真)


 まず、小太郎社長の漁師姿ですがこれは戦後間もない頃、昭和25年くらいまでの漁師の姿です。歌津だけでなく三陸一帯の漁師がこういったスタイルだったようです。歌津のあたりでは戦後の数年間くらいまで残っていました。子供さんが見ると浦島太郎みたいと思うようです。


写真自体は仙台の藤崎にて常設テナントとして出店するようになってから広告用に撮影したもので、親戚が大切に残していた漁師衣装を借り15年ほど前に撮影しました。写真ではよく映っていませんが、下半身につけているのが「ムグ(モク)」という海藻を干して編み込んだ「ムグ前掛け」という作業衣で、現在の漁師が履いている漁業合羽と同じような役割をしていたらしです。(ムグ前掛けの性能は濡れるし、重たいしで今の合羽とは比べ物にならない作業衣のようですが…)


これまでは父親である小太郎社長に改まって昔話を聞くことなどありませんでしたが、こうして出資者の方に意外な質問を受けたりしたことから、私も興味が湧いてきました。そこで昭和16年生まれの小太郎社長に昔の歌津の漁師の様子をインタビューしてみた次第です。私の解説も含めましてつれづれなるままにご紹介します。


○小太郎社長インタビュー写真①

● 昭和22-25年頃…小太郎社長の小学校低学年時代
2011年の津波で完全に流されてしまった旧・工場の地、宮城県本吉郡歌津町中山(当時の市町村名)の“海まで5歩”というところが元々の家でした。2013年9月10日の被災地レポート「由来」でも触れていますが、すぐそばに海に流れ込む小さな川があり橋がかかっていたので屋号が“橋本”。小太郎社長は“橋本んトコの小太郎”でした。


 この地域がみんなそうであるように千葉家も何代も前から半農半漁で生計を立てていました。小太郎社長は5人兄弟の長男でして、当時、戦争に出兵していた父(私からは祖父)の栄太郎の文字にあやかって、「小太郎」と名付けられたようです。


 歌津町は三陸海岸特有のリアス式海岸という地形であるので、複雑に入り組んだ海岸線があり、船をつけられる入り江や、浜に昔から漁師達が住んでいたわけです。平地が少なく、海岸から300mも入るとすぐに山という地形ですので、林業をなりわいとする人々もいて、半漁半林業という家もありました。いずれにしても“漁”すなわち海となんらかの形で関わっている家ばかりでした。それは現代の歌津もあまり変わりませんね。


 この当時は戦争中ということもあり日本全体が食糧難の時代でした。歌津は海の幸には恵まれていましたから、男の子は小学生になると浜の軽作業の手伝いを始め、海藻を干したり磯の貝を採ったりと、おかずになる食糧調達の一部を担っていました。また、女の子も台所の手伝いや、兄弟たちや近所の子供たちの世話など大人と同様の家事を任されていました。


 ○小太郎社長インタビュー写真②

「海の幸があっても食糧は足んねがったなぁ~、
よく近所の柿だの大根だの採って食べだっけなぁ~」…小太郎談話

ちなみに、歌津には小学校が二つあり、歌津町の東側にあたる馬場地区・中山地区(私たちが住む)あたりは名足小学校(なたり)に通っていました。もう一つは町の西側地区の人が通う伊里前小学校(いさとまえ)で、中学生になると町で唯一の歌津中学校で両方が一緒になります。歌津で生まれたならば必ず中学校でみんな一緒になるわけです。だから同学年も上下の学年もほとんど顔見知り。今でも下の名前やあだ名(ニックネーム)で呼び合っています。家業の漁の手伝いだけでなく、小学生だけで磯のものを採ってはおやつ代わりに食べていた、子供がそうやって食べる分には暗黙の了解で怒られることはなかった、そんな時代でした。


 ●昭和26-30年頃…小太郎社長の小学校高学年~中学生時代


海には漁師の厳しいルールが沢山あります。そのなかでも沿岸で漁を行う者に一番重要なのが「開口(かいこう)」。(今でも漁業権を持つ世帯にのみ与えられた、漁を許されている権利)
 「明日は朝5時から8時までウニを採ってよい」、「今日は12時まで磯草を採ってよい」、そういったルールがあって地域の漁協が、海産物の収穫時期と海の透明度や天候などの要因から厳密に漁の出来る日時を決めていました。乱獲を防ぎ資源を守るためというのが主な目的ですが、天候の悪い危険な日に一人だけで出漁しないようにという安全のためでもあります。

 養殖が始まる前は、天然モノを限られた時間でいかに多く採れるかが勝負です。そこで小学校高学年であっても「開口」となると、授業に遅れてでも親の船に乗り、漁の手伝いをしていたので、立派な稼ぎ手に数えられていました。学校側も判っていて認めていたようです。多いときで年間に100日間も海に出てから学校に通っていたと言います。都会で生まれ育った方には、なんともおおらかに感じられますかね? (開口で学校が公休扱いになるのは、私が小中学生の時代もありましたし、現代の学生にも通用します。) ________________________________________


※今シーズンのアワビの開口の写真を何枚か紹介します。(2013.12・8撮影)



 箱メガネでアワビを探しています。


 こちらでは、長竿の先にあるカギに引っ掛けたアワビを引き上げています。


 「アワビカギ」…このカギでアワビを引っ掛けます。


 採れたてたてのアワビは箱にくっ付くと、はがれないので網を掛けおかないと大変なことになります。



(もちろん我が家でもアワビ漁に〝いざ出陣!!〟手前で竹竿を構えているのが私、オレンジの合羽が小太郎社長、奥の櫂(かい)押しがおふくろのあさ子 撮影者が弟の馨)  

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 箱メガネを使い、海のなかを覗きこみながら狙いを定め、あわび漁には「アワビカギ」、ウニには「ウニカギ」、ワカメには「ワカメ刈りカマ」と昔ながらの道具を使って漁をしました。網を使うときは重労働ですが、それ以外は子供でもセンスがよければ大漁を狙える、そんな漁法が多かったのです。それぞれの家で、海産物ごとに良く採れる漁場を知り、他の漁師には絶対に教えませんから、おのずと親兄弟で漁をすることになるわけです。


 採ったものは地元の漁協を通して業者が買い上げます。アワビは特に高額で売れるので自家消費用に回すことはほとんどありませんが、海藻類は乾燥すれば保存できるので沢山取れたら自家用に残しました。だから歌津の漁師の食卓は海藻料理がのぼることが多かったのです。


 ○小太郎社長インタビュー写真③

 「昔は多いときでアワビが4時間で80kgも採れだんだぁ~。そんな大漁のときや冠婚葬祭のときだけは我が家でもアワビを食べだっけなぁ~」…小太郎談話


当時の漁師は、このアワビ漁(11月~12月頃)で向う半年分の収入源を確保していたそうです。今でもアワビの開口はありますし、震災後も再開しています。しかし、当時と今とでは比べようがないほど水揚量が違いすぎています。少なくても、現在はアワビ漁だけでは1ヶ月の生活費にもならないことだけは確かです。


 いかがでしたでしょうか? 昔の歌津の漁師ばなし…
 今後も皆様からいただいた疑問にお答えしながら、もっと歌津小太郎を知っていただけるような記事もお伝えしていきたいと思います。今回は小太郎社長の幼少期を通じて、当時の歌津の文化や習慣をイメージしていただければと思って、記事にしてみました。



これかも、応援よろしくお願いします。

 (記事担当 千葉孝浩)