歌津小太郎こぶ巻ファンド ファンドニュース

被災地からのレポート2013年10月19日 10:36

歌津小太郎の復活物語(前編)2012年7月まで

”歌津小太郎こぶ巻ファンド”の有限会社橋本水産食品の千葉孝浩です。
9月下旬からようやく看板商品の昆布巻をみなさんにお届けすることが出来るようになりました! あの震災の日から2年と7ヶ月。ここに至るまでの出来事を簡単にご紹介したいと思います。(ちょっと長くなっちゃいました…)

≪みなさん館 歌津小太郎コーナー≫


(10月から歌津小太郎 専用コーナーが設けられました!)


(復活したさんま昆布巻です!!)



(みなさん館スタッフ 酉抜(トリヌキ)さん 2013/10/18)

まず震災前の歌津小太郎はどんな風だったか、一言で申しますと創業者の千葉小太郎が“漁師が食べている「うまいッ」を、限りなくそのままお届けする”ただそれだけを追求してまいりました。昭和50年に漁師と兼業しながら、わかめの塩蔵品などの半加工品や、味付けした「めかぶ」や「くきわかめ」といった加工品を作るようになりました。当初は盛岡のスーパー等で「むきホヤ」を直接納品に行ったり、近くの産業まつりなどの物産展のイベントに出店したりと、そんな商売をしていました。
やがて私たちが作る味が評判となり、仙台の老舗百貨店の藤崎さんにお声がけ頂き、常設の店舗を構えるようになったのが平成5年。その時に、私たち自身のブランド名を作り、その名前を「歌津小太郎」と名付けました。
その後も、徐々に歌津小太郎の味が評判となり、週に一度は必ず足を運ばれるようなファンがつくまでになりました。加工品の中でも、煮物製品の味に高い評価をいただくようになり、特に昆布巻が人気でして、年間を通じて一番みなさんに愛される看板商品でした。本当に本当に順風満帆でした。

会社概要: 有限会社橋本水産食品(商品ブランド名: 漁師歌津小太郎)
震災前の住所:宮城県本吉郡南三陸町
(旧・歌津町)歌津字馬場82  (本社、兼自宅)
字中山59-4(工場) ※海まで5歩
震災後の新工場住所:南三陸町歌津字管の浜55-1
従業員数(社長も含む): 14人
取り扱い商品: 季節商品も含め全8品目
代表商品 こぶ巻(さんま・にしん・さけ)、めかぶ漬、陸中漬 など
販売チャンネル:  仙台・藤崎における直営店舗での対面販売       7割
提携先 ㈱カドヤ加藤物産による首都圏の百貨店での対面販売 2割
その他催事販売など  1割
震災前の3年間の平均売上額:  1.1億円 

なお、小太郎社長は昭和60年頃までは漁師との兼業を続けていましたが、加工・販売が軌道に乗ってからは周りからの勧めもありまして、50代で漁師を引退しました。(本人は続けたかったらしいですが、年齢・体力的に社長業との兼業はムリということで…)

歌津小太郎は現代には珍しい“対面販売”でほとんど売り上げるという昔ながらの商売をして参りました。私自身も仙台/藤崎の歌津小太郎コーナーの責任者として、売り場に立ってお客様と商品のご説明に、世間話にと楽しみながら販売をしていました。時代遅れのビジネススタイルかもしれません。しかし、震災後はそれが歌津小太郎を再建に導いたのです。

では、ここからが震災のあの日からの出来事になります。

●    2011年3月11日(金)14時46分地震発生からの2週間
その日、歌津小太郎工場では社長の千葉小太郎、専務の私(孝浩)も不在の中、従業員の12名は散り散りになりながらも、逃げ延びました。地震発生時、仙台にいた私が歌津にたどり着いたのは2日後の13日深夜、従業員全員の無事を確認出来たのが、それから一週間後のことでした。
海の目の前に建っていた工場は高さ、15mを超える津波に跡形もなく流され、海岸から200mほど入った、馬場地区にある自宅は流されはしなかったものの一階の天井まで津波を被り全壊の判定となりました。
さらには、自社の生産資源だけでなく、原材料と製品の委託保管先でした冷凍庫会社も全壊し流失しました。全て失ってしまい事業再建を断念せざるを得ない状況に、再起と再開を誓い合いながらも、従業員の生活を守ることを最優先に判断した結果、断腸の思いで離職証明書(←これにより失業保険が得られる)を手渡しました。一番長い方では勤続30年を超える方など、歌津小太郎とともに歩んで来てくださったみなさんでした。歌津小太郎の存在が無くなってしまった瞬間でした。

≪津波が工場襲う瞬間≫


2011年、お正月の爆弾低気圧の写真                (2011/01/01/ 16:17)

ここからが、3月11日の写真です。


(2011/03/11 15:20)


(2011/03/11 15:21)


工場は基礎ごと津波で流されました。        (2011/03/11/ 16:26)

●    2011年4月~7月
震災当時の報道で、みなさんもご覧になったと思いますが、南三陸町は庁舎も壊滅的な被害を受けました。従って震災後の数ヶ月は会社の再建に必要な手続き、例えば新工場を建てるには様々な届出が必要ですが、そういった手続きは一切進めることができませんでした。それ以前に最低限の生活を送ることもままならなかったのです。震災から3週間ほどたった日の夜、自宅1階はぐちゃぐちゃでしたが、津波の被害から逃れた2階で、私と親父、弟の3人で会社のこれからや、家族のこれからについてロウソクを囲んで本音で話し合いました。事業を再開するには工場の再建よりも前に、地元の漁業の復興が不可欠であること、大切な家族や身内の方を亡くした方たちが身近にたくさんおられたことなど、今は自分たちの事をするよりも地域のことに専念するべきと意見がまとまり、「私たち家族は、これからの1年間は地域に貢献することを仕事とする。」という結論に至りました。


(自宅1階の写真 2011/03/13)


(馬場、中山生活センターの写真 2011/04)

詳細は、歌津小太郎ホームページの活動日誌(2012年7月1日版)で沢山の写真と、どんなに感謝しても足りないくらいお世話になった皆さんの姿を紹介しています。

震災直後から地域の人々、約80世帯・200人が共同生活を送ったのが馬場・中山生活センターです。地域の中でも高台にある公共施設でして、ここは津波を被りませんでした。
私はこの避難所で避難生活を送りながら、物資調達班としてガソリン不足の中、仙台の宮城復興支援センターに何度も伺いました。歌津小太郎の仕事で仙台-歌津の往復に慣れていましたのでこの任務を自然に分担していただいたわけです。とにかく生活のすべての物資が足りませんでしたから、日本中からの支援物資が大変にありがたかった!なかでも、我々の避難所は歌津小太郎のご縁で、仙台/藤崎百貨店さんのネットワークで様々な物資を我々の避難所宛に直接ご支援頂くなどありましたので、避難所のなかでは恵まれていたように思います。

この間、避難所の男達が何をしていたか…なんと地域の人々とボランティアの方で未来につながる道“未来道”を行政主導ではなく自分達自身で作っていました。 私たちが計画した“未来道”は「今後いつかはまたこのような災害が必ず来ることを、私たちの子孫に伝えるためにも、救急車が国道から通れる道をつくって将来にそなえよう。」と言う最低限、自分たちの命だけは守れる地域の大事な財産として建設しました。
(※未来道の詳しい内容についても、2012年7月1日版をご覧ください)

●    2011年8月
全壊の判定を受けながらも、なんとか持ちこたえた自宅は、ボランティアの方々や、地域の皆さんの協力で瓦礫がキレイに撤去されましたので、その後、知り合いの大工さんにもお願いして、当面は人が住める状態まで直してもらい、自宅での生活に戻りました。
このころには馬場・中山生活センターに当初避難していた200人の人々も徐々に少なくなり、8月中旬には、全ての方が仮設住宅に住めるようになりました。
また、役場のほうも落ち着きを取り戻しましたので、復興に向けた対応を取れるようになってきましたので、歌津小太郎もようやく再建に動き出しました。

●    2011年11月
事業再開に向けて申請していたグループ補助金(3次募集)が、採択を受けて本格的に歌津小太郎が再出発できる環境を模索し始めました。中でも、工場の建設地がなかなか決まらずに、何度か暗礁に乗り上げそうになりました。地権者の方との賃貸借契約を済ませたのは、申請書類の提出期限2日前でした。


(工場予定地の写真 2012/09)

●    2012年4月
新工場の設計図面が出来上がり、いよいよこれからという段階になって、工事費の大幅な高騰や、町の復興計画の遅れによって、計画の見直しを強いられることになります。そんな絶体絶命の時に、工場の設計を始めから見直すことから引き受けていただいたのが、仙台の針生承一建築研究所の針生承一先生です。特に建設資金に問題を抱えていたため、針生先生からの強い勧めもあって、今回取り組んでいる、ミュージックセキュリティーズ㈱ 「被災地応援ファンド」に取り組もうと決意しました。今思うと、歌津小太郎のターニングポイントはこの時でした、ピンチからチャンスに状況が大きく変わったのは…

●    2012年6月
ひさしぶりに元従業員のみなさんに集まってもらいました。会社再建に向けての話し合いのためです。
仙台/藤崎デパートさんのご好意で、工場もない我々のために短期間ですが販売会を開催していただくことになり、自宅の台所で出来る範囲での商品作りを行うことになったのです。
元々、漁師の食卓にのぼるおかずを商品化したわけですから、台所でも商品は作れるのです! 出来る範囲からの再建の大きな一歩になりました。
話し合いののち、元の工場の場所に行きました。地盤沈下により半分は海面下となってしまった敷地で再起を近い写真撮影をしたのがこの写真です。みんな嬉しそう!自然と笑顔になりました。


(2012/06)

工場建設に関してですが、地元、南三陸町の山庄建設㈱の協力もあって、海岸より1kmほど内陸にはいった管の浜(くだのはま)という地域に建設することになりました。
歌津小太郎の工場に隣接して、南三陸直売所「みなさん館」を建設することも決まり、6月中には地鎮祭が執り行われました。こちらは公益社団法人アジア協会アジア友の会さんにご協力頂きここまでたどり着きました。完成後にはもちろん歌津小太郎の商品も扱っています。


(みなさん館オープンの写真 2012/10)

そして6月28日、この日からミュージックセキュリティーズさんによる“歌津小太郎こぶ巻きファンド”の募集を開始しました。

●    2012年7月
自宅の台所で作った商品で1年4ヶ月ぶりに仙台/藤崎B1階の“歌津小太郎コーナー”が復活しました。7月12日-16日の5日間だけ、商品も「三陸歌津産湯通し塩蔵わかめ」だけですが大きな一歩でした。顔なじみのお客様と沢山の再会に目頭が熱くなりました。
これが実現したのは藤崎さんの多大なるご支援ですが、そのバックには歌津小太郎ファンのみなさんの多大なるお力添えがありました。


(藤崎、売り場写真 2013/03/11)

詳細は、歌津小太郎ホームページの活動日誌(2012年7月7日、11日、19日版)をご覧下さい。
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簡単にまとめようと思いましたが、これまであまりに沢山の出来事がありまして、みなさんのお力添えに感謝する気持ちを全部お伝えしたくて、長くなってしまいました。
前編はここまでにしまして後編に続きます。
今回の記事の多くの部分は歌津小太郎ホームページの活動日誌にも詳しく掲載されています。合わせてご覧下さいませ。

震災支援で大変お世話になった皆さんです。(ほんの一例です)


(宮城復興支援センターの皆様と地域の皆さん 2011/04)


(福井県建設業会の皆様 2011/07)


(埼玉はすだ支援隊の皆様 2011/08)


(神奈川県座間市 ㈱かおる建設工業の皆様 2011/08)


(仙台市 ㈱藤崎百貨店の皆様 2011/04)


>>後編を読む




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(宮城県南三陸町)
歌津小太郎こぶ巻ファンド(1口1万500円)の詳細・お申込はこちら:
皆様の資金は、
昆布巻、めかぶ漬等を製造する工場の設備費用や、原材料の購入費用等に充てられます。