ケニアの政治について【後編:政治体制の変遷】
後編では、ケニアでの大統領選挙をめぐる歴史の概略を振り返ってみたいと思います。
ケニアでは、有権者が大統領候補者に直接投票する直接選挙制が採用されています。現行憲法上、大統領の任期は5年一期で、3選は禁止されていますが、この憲法改正が成立して以降、どの大統領もこの規定を遵守しており、20年以上の独裁が続くウガンダやルワンダといった近隣国や他のアフリカ諸国と一線を画しているのが特徴的です。
しかし、1963年の独立以来、その道のりは単純ではありませんでした。
独立後から一党優位体制とそこからの脱却
1963年にイギリスから独立した際には複数政党制を採択し、また二院制と連邦制も取り入れるなど、旧宗主国イギリスの意向を受け、権力分散の方針が取られていました。しかし、独立後最初の選挙で第1党となったケニア・アフリカ人全国同盟(Kenya African National Union: KANU)や、その委員長である初代大統領ジョモ・ケニヤッタ氏は、当初から中央集権を主張しており、説得を受けた第2党の政党が1964年に自主解散すると、独立後1年も待たずKANU一党体制となりました。これにより、自由に憲法改正が可能となり、ケニヤッタ大統領個人への権力集中を強め、野党や反対派を排斥する改正が次々と進められたのです。この権威主義体制が強化されたのは第2代大統領ダニエル・アラップ・モイ政権下の1982年で、憲法改正により「KANU一党制化」に移行し、国会議員や大統領になるためにはKANUに所属しなければならなくなりました。5年毎の大統領選挙は行われていましたが、政権党がKANUから変わることはありませんでした。
この状況に変化が起こったのは1991年です。大規模汚職が頻繁に報告されるようになり、政治改革を求める運動が国内で高まりました。また、ケニアへの援助供与国と国際機関が、援助供与の条件として、KANUを唯一の政党と定める条項と国政選挙への立候補資格を制限する条項の廃止を求めました。その結果、再び憲法が改正され、複数政党制が回復し、また、大統領の任期は5年2期と定められたのです。
1991年以降も事実上の一党制が継続していましたが、その後、集会の自由などを厳しく取り締まる植民地時代の法令も廃止されていったこと、KANU一党では大統領の任期を変えるための憲法改正が不可能であったことから、モイ大統領は引退を早くから表明し、後継者争いが始まりました。2002年の選挙により、独立以来40年間政権を握り続けたKANUに代わって、野党が結集した全国虹の連合(National Rainbow Coalition: NARC)が政権を獲得しました。
大統領選挙と多民族、2007年の選挙後暴力
多民族国家であるケニアにおいて、大統領選挙は地域や民族が大きく影響します。大統領や政権党は出身地や出身民族を優遇する傾向があるといわれ、投票者も自らと同じ出自の候補者に投票する傾向がみられます。
2007年12月末の大統領選挙では、不正疑惑の中でキクユ人のキバキ氏が再選し、この不正疑惑に由来し、対立候補のオディンガ氏の当選を訴える暴動がキクユ人と非キクユ人の間で起こりました。この暴動での死者は少なくとも1,000人と言われており、国内避難民は最大時で65万人に至りました。幸いにも、元国連事務総長でケニア人のコフィ・アナン氏らにより翌年1月に調停が成立して暴動は収束へと向かいました。この調停を経て、ケニアで初めてキバキ氏の所属する挙国一致党(Party of National Unity: PNU)とオディンガ氏の所属するオレンジ民主運動(Orange Democratic Movement: ODM)の連立政権が樹立され、キバキ氏が大統領に就任する一方で、オディンガ氏は暫定的に設けられた「首相」というポストに就任することで手打ちとなりました(2013年に首相ポストは廃止。)。
国民投票による2010年憲法改正
2007年の選挙後暴力を受け、2010年3月、国際刑事裁判所(ICC)が人道に対する罪の捜査を開始しました。こうした介入を阻止するため国内の政治改革を進めることが効果的となっていた背景から、2010年には国民投票により、大統領権限の大幅な縮小、地方への権限委譲、大統領選挙に係る申し立てを審理する権限を持った最高裁の導入などが盛り込まれた新憲法が成立しました。この憲法はアフリカで最も進歩的な憲法の一つとも評価され、国際的な支援を増加させることにも繋がりました。
2013年以降の大統領選
新憲法施行後初めての選挙となった2013年大統領選挙では、独立選挙管理・選挙区画確定委員会が設置されました。50.07%をウフル・ケニヤッタ氏が得票しましたが、一部の有権者が有権者名簿から漏れたり、票の集計方法に不満が出るなどの問題があり、対立候補であったオディンガ氏が選挙の不正を訴えて最高裁に提訴しました。しかし、最高裁は委員会の公表した結果を支持する判決を下し、また、国際的な選挙監視団も透明かつ効果的な方法だと評価し、オディンガ氏はその結果を受け入れたため、大きな衝突は起きず決着しました。
続く2017年の選挙ではウフル・ケニヤッタ氏が一度当選しました。しかし、野党が不正を訴え、今度は、最高裁が選挙手続の違法を認めてアフリカ史上初の選挙結果無効の判決を下しました。これを受けて再選挙が実施されるも、対立候補のオディンガ氏は選挙をボイコットし、オディンガ氏の支持者も投票をしませんでした。その結果、ケニヤッタ氏が再選しましたが、投票率はそれまでの選挙の中でも最も低く、国内の緊張は高まり、一部では暴力も発生しました。その間ケニヤッタ氏とオディンガ氏の間で非公式な対話がなされ、2018年には和解が成立しました。
このような歴史を踏まえると、今回の大統領選挙は比較的平和的に終わったこと、そしてケニアが独立以降、紆余曲折を経ながらも選挙の司法化を進めてきたことが見えるかと思います。